静岡市美術館HOME > 過去の展覧会 > 大観・靫彦・龍子らと修善寺

伊豆市所蔵近代日本画コレクション展 大観・靫彦・龍子らと修善寺

展覧会概要主な出品作品関連イベント刊行物


修善寺温泉の新井旅館主人・相原沐芳(パトロン)と日本画家たちによる温かな交流
明治末~昭和初期の若々しいのちの院展画家の作品が中心
福地山修禅寺(ふくちざんしゅぜんじ)と靫彦・沐芳
修善寺温泉の始まり
川端龍子と修善寺
東海道を歩いた画家達-小杉未醒、横山大観、下村観山、今村紫紅

修善寺温泉の新井旅館主人・相原沐芳(パトロン)と日本画家たちによる温かな交流
日本画家25名の日本画79件を一堂に展示
安田靫彦筆《鴨川夜情》昭和9年頃 伊豆市所蔵

京都鴨川の床で、夕涼みをする3人を描く。何やら楽しい会話が聞こえてきそうな情景だ。本作は江戸後期の文人・田能村竹田「柳塘吟月図」に記されたエピソードに想を得て描かれたという。それは七夕の夜、酒宴を楽しんでいた竹田のもとに、木米の家から帰ってきた山陽がやってきた、二人は木米の話をしながら鴨川の床で酒を酌み交わした、というもの。靫彦は古典・古画研究に励む中、良寛や江戸の文人達の風雅な世界に憧れていた。靫彦と沐芳らが芸術談義を交わす様子にもみえる本作は、昭和9年、靫彦から沐芳に贈られた。

安田靫彦筆《相原沐芳像》昭和26(1951)年 新井旅館蔵

修善寺の梅の木の前に立つ相原沐芳晩年の姿。亡くなった翌年に夫人から依頼を受け、五年半の歳月を経て沐芳七回忌に完成した作。靫彦の脳裏に沐芳の姿は焼き付いていたはずだが、作画に際して靫彦は写真七枚を借用した。写生を重視し、常に真摯な作画姿勢を貫いた靫彦ならではの肖像画。

相原寛太郎(あいはら・かんたろう)[1875~1945]
号:沐芳(もくほう)、養気館主人(ようきかんしゅじん)等
駿東郡大平(現・沼津)に生まれる。若い頃、東京で勉学を修める。絵を描き、芸術全般への造詣を深める。
明治30年代半ば、新井旅館三代目主人となる。
安田靫彦、石井林響(りんきょう)らが新井旅館に逗留、特に靫彦の紹介で、横山大観、菱田春草、今村紫紅、小林古径(こけい)、前田青邨(せいそん)らと交流・支援する。日本美術院賛助員となる。
旅館名「あらゐ」は、川端龍子の揮毫。


安田靫彦(やすだ・ゆきひこ)[1884~1978]
東京日本橋生まれ。小堀鞆音(こぼりともと)に入門。紫紅会、紅児会で歴史画研究。選ばれて奈良に留学するが病のため帰京、創作中止を余儀なくされる。沐芳の招きで新井旅館に明治42年春~夏まで逗留、静養しながら古典古画の研究に努める。沼津に移住し制作再開後も、紅児会の画家仲間とともに修善寺に通う。再興院展を舞台に活躍。相原家とは生涯家族ぐるみの交流が続いた。



明治末~昭和初期の若々しいのちの院展画家の作品が中心

伊豆市コレクションは新しい日本画の革新を目指して、明治末~大正初に結成した「紅児会(こうじかい)」、「赤曜会(せきようかい)」で活躍したメンバーが、後にいわゆる再興院展の画家たちとなる過程で、沐芳と出会い、交流し、集められた作品がほとんど。
よって若々しい清々として筆使いの日本画ばかり。


横山大観《松竹遊禽》大正元(1912)年頃 伊豆市所蔵


福地山修禅寺(ふくちざんしゅぜんじ)と靫彦・沐芳

夏目漱石の「修善寺の大患」、岡本綺堂の「修禅寺物語」でも知られる福地山修禅寺は、弘法大師・空海が創建したと伝えられる。
相原沐芳、安田靫彦らと関わりをもった絵心のある修禅寺第38代住職・丘球学(おかきゅうがく/1877~1953)の作品「靫彦筆かちかち山模写」なども特別出品!
靫彦が古画研究の成果をふまえ、養気館主人である沐芳のために描いた、鳥獣戯画を思わせる《かちかち山》。修禅寺の僧もこれに倣って描く。これまで知られていなかった、修禅寺と沐芳、靫彦との関係を作品、書簡資料からも明らかに。


安田靫彦筆《かちかち山》 株式会社ヤマタネ蔵


丘球学筆《靫彦筆かちかち山模写》大正12年 福地山修禅寺蔵(部分)


修善寺温泉の始まり

修善寺温泉の始まりは、福地山修禅寺が創建された大同2(807)年、空海が桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心し「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させたことにはじまるという。今でも、「独鈷の湯」として、湯治客を癒している。
左下は靫彦とならび、新井旅館に早くから、そして一番長く滞在(明治40年末~42年春)した、石井林響(1884~1930)の作。右手に独鈷杵を持ち、左手に数珠を持つ、修禅寺を創建した弘法大師・空海の姿を描いた大幅。ちなみに、林響は、浜松出身の女性画家、秋野不矩の最初の師匠でもある。


石井林響《弘法大師》明治41(1908)年 伊豆市所蔵

特別出品
金銅蓮弁独鈷杵 平安時代 福地山修禅寺蔵


川端龍子と修善寺

川端龍子は、昭和3年に院展同人を辞し、翌年“会場芸術”を目指した「青龍社」を旗揚げして独自の道を歩んだ画家。壮年期渡欧資金調達のための制作を新井旅館で行ったことが縁で、修善寺は第二の故郷と以降、家族でたびたびおとずれた。本作は龍子の娘がモデルで、新井旅館の安田靫彦がデザインした天平風呂の様子を描く。龍子が好んで描いた池の鯉を眺めながら入浴できることが、本作からもわかる。龍子はその風土を好み、アトリエのある自宅の周りも修善寺の自然に擬えて草木を植えたという。福地山修禅寺の檀家となり、昭和25年宝物殿には巨大な「玉取龍」(約3.8×8m)の天井画を描いている。


川端龍子《湯浴(湯治)》昭和2(1927)年 伊豆市所蔵
© Minami Kawabata & Ryuta Kawabata 2016/JAA1600032


東海道を歩いた画家達-小杉未醒、横山大観、下村観山、今村紫紅

彼らは静岡市美術館のすぐ隣、“浮月楼”にも立ち寄っている!
大正4年3月21日~31日まで、横山大観、小杉未醒、下村観山、今村紫紅、表具師は、汽車を使わず、徒歩、駕籠、人力車を駆使して東海道横断旅をした。
日本美術院再興のための資金を得るべく「東海道五十三次合作絵巻」を制作するためだった。
二巻の画巻が制作され、原三渓が購入したものは現在東京国立博物館の所蔵となっている。
本作は沐芳に贈られた東海道図(四幅対)。この旅行がきっかけで制作されたもの。修善寺に到着前を描く。


(右から)小杉未醒《程ヶ谷》 横山大観《藤澤街道》 下村観山《馬入川》
今村紫紅《早川残雪》 いずれも《東海道》四幅対のうち 大正4(1915)年 伊豆市所蔵