靫彦の肖像画

2016/07/10

いよいよ今日は最終日です。

本展で一番最初に皆さんをお迎えする2つの作品を、最後にご紹介します。

 

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二枚とも、安田靫彦の作品です。

左は、靫彦が沐芳に強く勧められて結核の静養のために新井旅館に滞在した、明治42年頃、25歳頃の作品です。

大きな作品を描く体力はなかったけれど、小さな扇面に、自身を助けてくれた沐芳のために、修善寺の近く、伊豆長岡出身の「あやめの前」を描いています。落款には、養気館(ようきかん)=(新井旅館)のために描いたと謹んで記されていますね。

 

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安田靫彦「あやめの前」明治42~44年 25~27歳 伊豆市 

 

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(部分)

 

よくみると、このあやめ御前、入浴の場面なのではないでしょうか。着物をはおっていますし、扇と柄杓がえがかれていて、お湯の表現でしょうか、水面は墨に加え、金泥のような色彩が施されていますね。新井旅館にはあやめ御前の入浴したお風呂があったということですから、養気館新井にゆかりある歴史画の主題を選んだのかもしれませんね。

 

 

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安田靫彦 相原沐芳像 昭和26年 67歳 新井旅館 

 

右は修善寺の梅の木の前に立つ相原沐芳の晩年の姿です。眼光は鋭いですが、凛とした品格のあるたたずまいですね。実はこの作品、亡くなった翌年に夫人から依頼を受け、5年半の歳月を経て、沐芳七回忌に完成したというものです。靫彦にとって、20代から約30年以上、生涯家族ぐるみで交流したこの大恩人・沐芳の姿は、目をつむっても描けたはずですが、この作品を描くにあたって、相原つる夫人より写真7枚と着物を借りて、それを写して描いたそうです。靫彦晩年の良寛ばりの美しい書で、夫人あてに綴られた本作の添状には、さらに沐芳晩年の容貌を写生すること機を逸し、写真だけに頼った作画になったことを悔やんでいます。

 

写生を重視し、常に真摯な作画姿勢を貫いた靫彦ならではの、とてもよい作品だなあとつくづく思います。

靫彦は"歴史画の靫彦"と一般にいわれますが、肖像画がいいよね、と本展を観覧してくれた友達からメールが来ました。

本当にそうだなあと改めて思います。

このブログでもご紹介した相原浩二君寿像も、かわいらしい赤ちゃんの様子がとても生き生きと描かれていますし、この沐芳の肖像画もそうですが、画家の対象に対する"情"がありますね。

 

 

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安田靫彦筆「直心浄国禅師画像(じきしじょうこくぜんじがぞう)」(旭傳院(きょくでんいん)蔵)

 

本展でパネル展示をしています、静岡・焼津の旭伝院に伝わる頂相は、靫彦にとって初めての肖像画制作の機会となったものです。これは、八戸出身で総持寺独住3世貫主をつとめ、明治43年12月4日に遷化した西有穆山(にしありぼくざん)(1821-1910)の肖像画で、穆山没後半年余り経った明治44年7月以前に、修禅寺の丘球学、相原沐芳らを介して、穆山の弟子の岸澤惟安(きしざわいあん)から依頼を受けて描かれたことが書簡からわかる作品です。写真だけを参考にしたために、「要点を得るのに苦心」し「甚だ悪作」と、靫彦自身は厳しく評価をしていますが、禅師の人となりが感じられるような、まさしく頂相だし、清らかな肖像画だなあと、現物を拝見させていただいて思いました。

 

靫彦の肖像画には、その絵画制作に対する真摯な思いがにじみでたいい作品がおおいなあ、と私も思います。

改めて、相原沐芳像、ぜひお見逃しなく、またよくかみしめてご覧いただけましたら幸いです。

 

(e.y.)

 

 

修善寺は第二の故郷

2016/07/09

安田靫彦の仲間たちとは別の形で、修善寺・新井旅館とまた福地山修禅寺とゆかり深い画家がいます。会場芸術を提唱した、異色の日本画家・川端龍子です。 本展では最後に龍子のコーナーを設けています。

 

図1 会場写真伊豆 045.JPG

 

自ら"修善寺は第二の故郷"と語った川端龍子と新井旅館との縁は、明治45年、龍子27歳の時にはじまります。

当時、龍子は、洋画家を志しており、渡航費用調達のための頒布会(はんぷかい)を計画しました。売るための絵の制作場所として新井旅館を選び、半切(はんせつ)の日本画を描いたといいます。

 

今の日本の社会では、家屋のスタイルがすっかり西洋化していますから、掛軸や屏風よりも、額装の洋画の方がよく売れますが、この当時は洋画家を目指す画家も、日本画を描いて売ったものでした。

 

この時、新井旅館の"池の鯉"と対面したことが、龍子が生涯、幾度となく鯉を描くきっかけとなったといわれています。龍子にとって鯉を描くことは"自分の面構え、心構えを表わそうとすること"だったといいます。やがて沐芳とも親交し、毎年家族で湯治に来るようになりました。

 

図2 湯あみ 部分 会場写真伊豆 047.JPG

 

正面に掲げた、可愛らしいおかっぱ頭の女の子が入浴する作品は、龍子の三女がモデル。女の子は、片足を浴槽の中にぶらつかせて、気持ちよさそうに、ぼーっとガラス越しの庭池の鯉を眺めています。今でも、新井旅館の天平風呂に入ると、池の鯉が見られる仕組みになっているのです!この天平風呂は安田靫彦がデザインしたもので、唐招提寺のように柱がエンタシスで、天井が高く、とっても気持ちのよいものですよ。

 

展覧会には「湯治」という題で出品していますが、絵の裏には「湯浴(ゆあみ)」と記されています。女の子が気持ちよく湯浴みをしている、それをお父さんの龍子が優しく見守る、そんな温かい絵ですね。

 

図3 要覧 会場写真伊豆 049.JPG

 

また、昭和19年、別荘「青々居」の建築がきっかけで地元の大工さんと意気投合。後には、町の観光協会顧問に推挙されて、町民とも親しく交流しました。修善寺の町勢要覧をつくるにあたり、その表紙絵も龍子が頼まれると、画題には修善寺温泉を代表する眺望を選び、これを描いて無償で提供しています。本展ではこの原画(「修善寺城山公園よりの展望」)や、修善寺町長公室に飾ってあった名産のしいたけを描いた絵もあわせて展示しています。

 

ちなみに龍子は建築が得意で、東京の自邸の庭にも、わざわざ修善寺から庭石を取り寄せ、垣根には名産の孟宗竹をあしらうほどでした。それくらい修善寺を愛していたのです。現在、自邸とアトリエは、大田区立龍子記念館となり、龍子宅も含め公開しています。

 

図4 修禅寺の龍 展示替え 010.JPG

 

龍子は自身の次女を亡くすと、福地山修禅寺に「川端系の墓」(妻、三男、龍子も眠る)、や「筆塚」などを建立し、修禅寺の檀家にもなりました。それが縁で、昭和27年、福地山修禅寺の宝物殿開館に際し、約4×8mの大天井画「玉取龍」を揮毫しています。原寸より小さくなってしまいましたが、スライドでご紹介しています。 龍子の龍は、今なお福地山修禅寺の天井から我々を見守ってくれています。

 

(e.y.)

 

 

画家たちの五十三次と大観

2016/07/07

今日は七月七日、七夕です。静岡市美術館では2012年に「七夕の美術―日本近世近代の美術工芸を中心に」を開催しました。あの年もそうでしたが、今晩もはれそうです。天の川がみえるでしょうか?

七夕展も本展も偶然担当している筆者としては、毎年、七月七日にはご縁がある気がします。

 

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安田靫彦 鴨川夜情 昭和9年頃 伊豆市

 

本展のメインイメージである安田靫彦「鴨川夜情」も、田能村竹田「柳塘吟月図(柳蔭吟月図)」に記された、七夕の夜のエピソードに想を得て描かれたものなのです。皆さんも今宵は描かれた3人のように、夕涼みをしながら、清談をかわしてみてはいかがでしょうか。

 

この展覧会では(またこのブログでも)沢山の若き画家たちをご紹介してきましたが、彼らはなんと、静岡市美術館のすぐ隣、浮月楼で休憩したことがあるのです。確実にそのことがわかる作品を今日はご紹介します。

 

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大観・観山・紫紅・未醒 東海道 大正4 年、伊豆市

 

「東海道」四幅対とそっくりの有名な作品があります。現在東京国立博物館が所蔵する、原三溪旧蔵の「東海道五十三次絵巻」です。これは、日本美術院を再興するにあたり、その資金調達のためにと、大正4年、横山大観・下村観山・今村紫紅・小杉未醒の4人が、東海道を汽車を用いず人力車・馬車・駕籠などで旅をし、道中の風光を描いて作った絵巻物です。

 

沐芳旧蔵の四幅対はその旅の途中、4人が修善寺に立ち寄った際に描かれたと思われるものです。いずれも東京を出発して修善寺に至る間の場所がえがかれていて、小杉未醒が程ヶ谷、横山大観が藤沢、下村観山が馬入川(ばにゅうがわ)、今村紫紅が早川を担当しています。

彼らはその後、静岡市美術館がある府中(静岡)にもやってきて、なんと、浮月楼で休憩をしていたことが『静岡新報』に記されています!!

 

「四画伯滞杖 日本美術院の横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅の四画伯一行は去る十一日東京出発、東海道の駅路を写生しつつ箱根の雪景を眺め、昨十七日三島町より馬車にて富士川を渡り、岩淵、蒲原、由比を通過して興津町一碧楼に投宿し、翌日未明、同所を発し、当市浮月楼にて少憩、夫より宇津の谷峠を徒歩し、又馬車を叱して島田町に達し、魚種旅館に投宿、二十一日同揮毫の為滞在す。因みに東海道五十三次駅路の写生は頗る長巻にして、珍らしき物の由、京都着は本月末日なるべしと」

 

つまり、大正3年3月17日 横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅は、三島より興津に至り一碧楼に宿泊、18日、静岡浮月楼で少し休憩し、島田魚種旅館にて宿泊、20日同旅館で揮毫している模様。今や東京国立博物館所蔵の絵巻は確かにとても長くて珍しいものです。

近代の弥次喜多道中、なんだか楽しそうですね。

 

沐芳さんは、彼らのために、また美術院のために、絵巻とよく似た筆遣いのこの四幅対を求めたのでしょう。岡倉天心なきあと、日本美術院の牽引者である横山大観は、美術院のために様々な活動をしますが、この大観の仲介で、沐芳さんは日本美術院が再興されるにあたり賛助会員となって、積極的に彼らを支援していました。この度はそうしたことがわかる資料も併せて展示しています。

 

ところで、靫彦ら若き画家たちにとって大観先生は、大先輩であり"先生"であり、別格でしたが、同じように、沐芳にとっても大観は他の画家とはちがった特別なもてなしをしていました。新井旅館の離れには昭和3年、大観専用のアトリエ・山陽荘が建てられ、大観はここで自由に筆を振るうことができたのです。

 

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横山大観 神州第一峰(しんしゅうだいいっぽう)昭和5年 伊豆市

 

この堂々とした富士山、山陽荘で描かれたことが箱書からわかります。

墨だけで描かれた、堂々とした大幅です。富士山の雲海は、何度も何度も墨を塗り重ね、滲ませたり、ぼかしたりして、墨と紙と筆とを巧みにコントロールしています。墨をそそぐように、とよく美術史の言葉でいいますが、本当に上手くそそいでいます。簡単そうにみえますが、大観じゃなければ描けない墨画です。

 

画中に記された年紀から、昭和5(1930)年1月に描かれたものとわかりますが、この昭和5年は記念すべき年です。この年の春、大観らは、イタリア政府主催ローマ美術展の遣欧使節として渡欧しますが、この壮行会が新井旅館で盛大に行われ、美術院の画家達がたくさんあつまりました。

 

つまり大観は、渡欧前に「神州第一峰」と題し、日本一の山・富士山を墨絵で堂々と描ききって、そして渡欧をはたし、帰国した1ヶ月後に再び沐芳の元を訪れ、"山陽荘で描きました"、と謹んで箱書をしているのです。

二人の親密な関係がここにも認められますね。お互い、尊敬しあっていたのでしょう。 

 

(e.y.)

 

 

相原家と安田家

2016/07/06

安田靫彦は、明治42年、新井旅館の相原沐芳の招きで、病気療養のため約5か月間新井旅館に滞在したこと、また44年末まで沼津で静養に努めたことがきっかけで、沐芳と生涯、家族ぐるみで交流が続きました。

 

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「相原家と安田家」とした本章では、毎年、いわばお年賀として、靫彦が相原家に描き贈った毎年の干支の絵が飾られています。二回りも贈られたということですが、本展でご紹介できるのはその一部にすぎませんが、表現描写の多様さをみていただこうと数点選んでみました。

 

例えば、鳥獣戯画を思わせる月で餅つきをする兎や、俵屋宗達の牛図とはまた違った滲みと暈しを駆使した牛、写生的な犬、また十二天より干支を選んだ白描風の作など、靫彦の古典古画学習がうかがえる、楽しい動物コーナーとなりました。

 

奥に見える屏風はこのブログの初めの方で紹介した「十二支扇面屏風」同様、直接屏風に扇型を描いているもので、十二支扇面同様、靫彦ら紅児会メンバーが明治末に描いたものに、昭和になってから、相原家より大磯の安田家に屏風が持ち込まれ、靫彦の弟子たちが筆を加えて完成させたものです。

 

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そらから、新井旅館より特に本展に際して拝借した「相原浩二君壽像」は、まさに相原家と安田家の交流の証です。

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また、ふわふわの産毛の赤ちゃんが赤いチャンチャンコを着て座っていますね。これは明治43年3月31日生まれの沐芳の息子で四代目主人の相原浩二、生後3ヶ月頃の姿です。

 

30年後の昭和14年、赤ちゃんだった浩二君が結婚することになり、靫彦が沐芳に頼まれて記した箱書には、浩二君がまたオシメをしていた頃の肖像画であること、30年の月日を経て、浩二君が結婚するに際し餞のことばが認められています。

 

さらに2年後の沐芳の箱書には、箱蓋を覆う赤い生地は、当時浩二が常に身に着けていた、描かれたモスリン地であること、これを浩二の母が大切にしまっていたことが記されています。

相原家と靫彦の温かな交流、親子の愛情が感じられる作品です。

 

*本展出品の伊豆市コレクション以外の出品作(例えば「沐芳人相書」「相原浩二君壽像」「相原沐芳像」「かちかち山」など)をまとめた小冊子を伊豆市所蔵品目録とともにセットで販売しています。詳しくはミュージアムショップへ!!

 

(e.y.)

 

 

苦心の力作・紫紅「枇杷叭叭鳥」のエピソード

2016/07/05

新井旅館の沐芳コレクションは掛軸だけではありません。展示室にはこんなに立派な六曲一双屏風が展示されています。奥の金屏風は横山大観の筆にかかるもの、手前の屏風は靫彦の盟友で、36歳で夭折した今村紫紅の作品です。

 

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みなさん、ぜひ、この屏風の前に立ってみてください。そして右に左に、前に後ろに、ゆっくり歩いてみてください。きっと枇杷畑の中を歩いているような気分になると思います。画面には、左右にそれぞれ1本ずつ、2本の枇杷(びわ)の木が描かれ、5羽の叭叭鳥を配しただけですが、屏風の枠を超えて大きな空間が広がっています。

 

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この大きな空間の広がりは、菱田春草「落葉」などの影響も指摘されるように、輪郭線を描かない、没骨法と呼ばれる手法で樹木を描いていることにもよりますが、何より、白っぽい樹木の幹や枝の配置、黒い叭々鳥の配置の工夫、つまりは紫紅の"構図の妙"にその秘密があるように思います。右の枇杷の樹木は、根本を描き、太い幹の上部は途中で切れていますが、左は上下とも切って、細い幹と枝葉を屏風の左に寄せて描いていますね。

 

ところでこの屏風、紫紅にとっても会心の作だったようです。

"とある作品"の沐芳の箱書によれば、沐芳から六曲屏風を依頼された紫紅は、特に構図に苦心してこの屏風を仕上げ、修善寺の沐芳の元までもってきました。ところが、生憎、沐芳は上京中。沐芳に制作の苦心談とともにこの屏風を届けようと思ったのに、、、とたいそう悔しがった紫紅は、たまたま新井旅館に逗留していた紅児会の仲間たち、石井林響や広瀬長江らにそそのかされて、ついに、沐芳を"指名手配"したのです。

 

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これが、その"とある作品"、相原寛太郎の人相書、つまりは指名手配!です。

沐芳さん、なんだか歌舞伎にでてくる悪役のような出で立ちですね。

「年の頃三十七、八。身の丈、五尺二三寸、眼光鋭く、色真黒く、眉毛太く、中肉中丈の好男子と自ら云う者なり」なんて書いてあります。見つけ次第代官所へ訴えれば、恩賞をたっぷりいただけるとも!

 

紫紅は親分肌で心優しい人だったようで、病気がちな靫彦を心配して沼津に引っ越して近所に住んであげたりと、靫彦と性格は反対だけど大の仲良しだったようです。沐芳さんとも、こんな人相書きの悪戯ができるような、親友だったのでしょう。

 

沐芳さんはこの人相書をとても面白がって、丁寧に表装して、箱書を認めています。そこにはこの屏風納品時のこの楽しいエピソードとともに、夭折した紫紅と今や芸術談義を交わすことができない無念の情が尊敬をもって記されています。

 

それにしても沐芳コレクションでいえば、石井林響、広瀬長江、また天才速水御舟もこの紫紅も、優れた画家ほど30代40代で命を失っているような気がします。

 

最後に、本屏風の隣の大幅「鷲」は、本当にスゴイ絵だと思います。あんな作品、紫紅以外、描けないでしょう。おそらく赤曜会出品作だろうとされる作品で、新しい日本画を真摯に模索し、墨の使い方などは中国の明清時代の文人画などに想を得たのでしょうが、それにしてもあんな大きな鷲をあんな大きな紙に!お化けのようです。とても解説なんて書けません!紫紅はやっぱりすごい画家、大親分だなと展示室でつくづく思いました。

 

(e.y.)

 

   

古径と青邨の燈籠大臣(とうろうのおとど)

2016/07/03

安田靫彦(やすだゆきひこ)をふくめ、後に院展の三羽烏とよばれた小林古径(こばやしこけい)と前田青邨(まえだせいそん)は、共に、歴史画を得意とした梶田半古塾の兄弟弟子でした。沐芳さん(修善寺・新井旅館三代目主人 本名:相原寛太郎)は、この二人が描いた同じ主題の作品を所持しています。

本展では、基本的に作家ごとに作品を紹介していますが、この二幅だけは、特に並べて展示しています。

 

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右 小林古径筆「重盛(しげもり)」明治44 年 28歳 伊豆市蔵

左 前田青邨筆「燈籠大臣(とうろうのおとど)」 明治末 20代半ば 伊豆市蔵

 

両方とも、烏帽子をかぶり、白い直衣を纏った人物が描かれ、まるで中尊寺金色堂のような柱、燈籠が描かれていますね。この人物は、平清盛の長子で重盛、別名、燈籠大臣(とうろうのおとど)と呼ばれた人です。『平家物語』によれば、重盛は東山の麓に48間の御堂を建てて、1間ずつ燈籠をかけ、毎月14、15日には女房達に念仏を唱えさせ、自らも願をかけたので、燈籠大臣(とうろうのおとど)と呼ばれた、ということです。

 

両方を比べてみると、古径は、重盛をほぼ正面から浮かび上がるように描いています。背後にこの物語の場面設定として重要なモチーフである御堂の柱、燈籠(とうろう)をえがいています。そして柱の近くには赤と白の散華(さんげ)がはらはら舞っており、画面に空気が感じられますね。

 

一方青邨は、念仏を唱える重盛をやや斜め後方から捉え、前景右手には灯りの入った燈籠と、まるで中尊寺金色堂の柱のような螺鈿(らでん)で宝相華(ほうそうげ)と菩薩(ぼさつ)があしらわれた柱、その陰には、華籠(けこ)を持つ童子が描かれています。柄香炉(えごうろ)などの法具もしっかりと写実的に描かれています。散華は舞ってはいませんが、床に色とりどりの散華がちりばめられていますね。燈籠の明かりには炎まで描かれています。どれも精緻に描かれていて、わずかな灯りで照らされた堂内の緊張感が伝わってくる、奥行き感がありますね。

簡単に言ってしまえば、古径は優しく、ぼおっとした空間表現によって空気を描いていますが、青邨は構図力によって空間を巧みに表現しています。

 

この時古径28歳、青邨は25、6歳でしょうか、ほぼ同じ時に同じ主題を描いた兄弟弟子のこの表現の違いは、彼らの後年の代表作を考えたとき、既にその個性が認められるといってもいいように私には思えます。特に青邨には後年、余分なモチーフはすべて排除し、画面に凛とした空気を漂わせた人物画の名品がありますが、その萌芽がここにあるように思います。

 

ちなみに、古径のこの作品は、第14回紅児会展(明治44年3月)出品画です。目録に記載がみえるのです。しかし直後の古径書簡によると、「重盛」は沐芳へのつもりで描いたが、つまらないので見合わせた、とあり、同年9月8日付には「重盛」を沐芳に送ったとあります。いずれにしても、優しい筆の古径ですが、完成後も納得するまで手を加える真摯な姿勢が見て取れます。

二人の個性を重盛/燈籠大臣を比べてみることで、味わっていただければ幸いです。

 

(e.y.)

 

 

紅児会の広瀬長江(ちょうこう)と興津・耀海寺(ようかいじ)

2016/07/02

私が広瀬長江の作品に初めて会ったのはもう15年ぐらい前のこと。それは、月明かりのもと、舟遊びをする唐美人が描かれた、透明感のある印象深い一幅でした。2003年、城西国際大学水田美術館にて『房総の素封家と近代日本画壇―大観・紫紅とその周辺』展で紹介するにあたり、長江は33歳で夭折したこと、紅児会(全19回のうち)に13回も出品した、紅児会の画家であることを知りました。

新井旅館との縁も深く、安田靫彦を沐芳に紹介したのも、また紅児会に前田青邨を紹介したのも長江だったようです。明治40年代の寄合描は、安田靫彦、石井林響、広瀬長江、浅野未央の4人によるものが目につきます。

 

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例えば、十二支扇面散。

因みに、福地山修禅寺の方丈様お気に入りの寅年の絵は長江です!

また、桃太郎の絵巻。桃太郎と犬が長江、雉は未央、猿は前田青邨。写ってませんが、その向こうに靫彦の赤鬼青鬼が描かれてます。

 

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伊豆市所蔵品の6点の長江作品からは江戸の浮世絵や近世初期風俗画が連想されるものが多いように思います。東京生まれの長江ならではの、"江戸のよすが"が感じられる"粋"で素敵な作品ですね。 夜の吉原道中を銀地の屏風で表現しています。キラキラした細い川も流れています。

 

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注目したいのは、左側のこの作品。

広瀬長江筆 「若衆と娘(わかしゅとむすめ)」 明治末~大正初 [24~26歳頃]

 

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金地の背景に浮世絵風に描かれた娘が、若衆の手の棘(とげ)を抜いています。

おそらくこれは、井原西鶴「好色五人女(こうしょくごにんおんな)」の「八百屋お七(やおやおしち)」の冒頭のお話ではないでしょうか。つまり、火事でお七と母とが駒込吉祥寺に避難し、その寺の小姓(こしょう)・吉三郎の棘を、お七が抜いてあげる場面です。この出来事がきっかけで、お七と吉三郎が人目を忍ぶ仲となるのです。

「八百屋お七」のテーマは、錦絵(浮世絵版画)では、吉三郎会いたさに、再びお七自ら火事をおこし、火の見櫓に上る姿がよく描かれます。例えば月岡芳年の作品など印象的ですね。近代以降も八百屋お七は、鏑木清方(かぶらぎきよかた)らの作例が知られ、雑誌の挿絵では棘ぬきの場面もしばしば描かれているようです。

長江のこの作品は、お七と吉三郎、二人とも初心な雰囲気がよく描かれていますね。

それから、もっと若い時の、勝仙と称した頃の作品も展示しています。

 

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広瀬長江筆「観桜(かんおう)」明治末 [24~26歳頃] 伊豆市

 

桜の花が散る中、古典絵巻から出てきたような高貴な人物や童子、お坊さんたちがお花見をしている場面ですが、描かれた人々はどこか、悲しそうな物憂い表情をしていますね。これは何を描いているのか、目下研究中ではありますが、花吹雪、貴族の花見、物悲しい場面であることから、下村観山「熊野観花(ゆやかんか)」や木村武山「熊野(ゆや)」同様、平家物語を下敷きにした謡曲「熊野(ゆや)」の別れの場かもしれない、と私はおもっています。

熊野のお話は、こんな話です。

平清盛の三男宗盛は、遠江の病の母のため暇乞いする愛妾(あいしょう)・熊野の帰国を許さず、清水寺(きよみずでら)の花見で舞を舞わせますが、散る桜を目にした熊野が、母の元に帰りたいと歌を詠むと、宗盛は帰国を許す、というものです。

皆さんはどう思われますか?縦長の掛軸に、上部の大きく余白をとる構図、こうした画題選択は、紅児会風であるといわれています。

 

日本画革新を追求した紅児会(こうじかい)で活躍していた長江は、静岡市内、清水区の興津にある、耀海寺(ようかいじ)の檀家・佐野家の「ゆき」と結婚しました。妻の実家の地元では、明治44年(1911)には「潮光会(ちょうこうかい)」という後援会が発足し、興津の他、となり町の由比などでも、画会や頒布会が行われています。大正2年(1913)、紅児会は解散しますが、この頃、すでに長江は結核を患い、興津で療養していました。友人・靫彦の書簡によれば、翌年11月、多量の喀血があり、横山大観ら画家たちが見舞金集めに奔走したといいます。

 

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大正6年(1917)5月3日、長江はこの耀海寺墓地に葬られました。長江の墓は今も、同寺の墓所にあります。お墓の背面には、画友や支援者、32名の名が刻まれていますが、その中に、前田青邨、安田靫彦、中村岳陵、牛田雞村、速水御舟、小林古径ら紅児会の画家仲間とともに、左下には「相原寛太郎」つまり沐芳の名前も刻まれていました。

 

(e.y.)